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お悩みNO.2429
伊藤幸弘教育研究所さん
楓桜さんへ
はじめまして。 書き込みありがとう。 忙しさに感けてお返事が遅くなってごめんね。 上記のゆっこさんはこの掲示板では時々書き込みをしてくれる方です。 我々としてもとても信頼のおける方なので安心してメッセージを受け止めてください。 さて、中2の時にいじめにあっていたのだね。 そのトラウマから不安な気持ちが拭えないようだね。 まず、いじめは最低だ。 そして、その尻馬に乗って便乗いじめをする連中も同様。 ゆっこさんが言っている通り、いじめをする人間は自分に自信がなく、自分よりも少しでも弱い部分を持っている人をターゲットに攻撃してくる。 大人の社会にもそんな最低な人間がいるんだ。 そんなときにどうするか。 その相手に対してビクビクしていたらもったいないよね。 だって、人として未熟な相手なんだから。 そんな人を「かわいそうな人」と思って憐れんでごらん。 不思議と怒りの感情はなくなるから。 人間は人から相手にされないと寂しくなるもんなんだ。 いじめの言葉に反応せず「無関心」を装えば相手もいじめをしなくなるんだよ。 人間の脳は自分が発した言葉も相手が言った言葉としてとらえてしまうんだよ。 相手は楓桜さんに悪口を言っているつもりだろうけど、それは回りまわって自分に返ってくるんだ。 とてもむなしいよね。 「売り言葉に買い言葉」と言われますが、何か心外なことを 言われると言い返したくなるもの逆に何も言い返さないと負けたと思ってしまう。 意地や我慢でもう後には引けない、そういう状態になって 怒りが、怒りを呼び、さらに大きな争いになってお互いを 傷つけ苦しむことになってしまいます。 そんな時どうしたらいいのでしょうか? それは、何か、気に入らないことを言われても 受け取らなければよいのです。 松風の音や波の音にうるさいと腹を立てても仕方がないよね。 ただ、聞き流すより他はなく、気に留めなければ腹が立ちません。 お釈迦様とある若者とのやり取りにこんなことが伝えられています。 あるとき、外教徒の若い男がお釈迦様の所にきて、さんざん、悪口を言った。 黙って聞いておられたお釈迦様は、彼が言い終わると、静かにたずねられた。 「おまえは、祝日に、肉親や親類の人たちを、招待し、歓待することがあるか」 「そりゃ、あるさ」 「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を食べなかったらどうするか」 「食わなければ、残るだけさ」 「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、 その悪口雑言は、だれのものになるのか」 「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」 「いや、そういうのは与えたとは言えない」 「それなら、どういうのを受けとったといい、どういうのを受けとらないというのか」 「ののしられたとき、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。 闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受けとったというのだ。 しかし、その反対に、なんとも思わないものは、与えたといっても受けとったのではないのだ」 「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」 お釈迦様は、おごそかに、答えられた。 「智恵ある者に怒りなし。よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。 怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」 「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」 外道の若者は、落涙平伏し帰順したといわれます。 お釈迦様のようなどんな悪口批難に対しても超然とした態度を取ることは 私たち凡夫にはとてもできなかもしれないけど、くだらない非難や中傷に目くじら立てて一緒になってケンカするのは同じ程度の人間ということになってしまいます。 本当に的を得た批判ならありがたく反省し、的外れな非難中傷なら受け取らなければいいということですね。 「怒らない技術 いわれなき非難は受け取らなければいい」ってことだよ。
投稿日:2013-11-25
以上の内容を削除します。
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